首都大福東京

TOKYO METROPOLITAN DAIFUKU

首都大福東京

能登屋【船堀@都営地下鉄新宿線】

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豆大福(つぶあん):100円


その65㎜を有に超える巨躯を円盤の様に平べったくして、
船堀「能登屋」の「豆大福」はパリパリのビニール袋の中で静かに潜んでいる。
パッと見で蝋細工を彷彿とさせるぼんやりとした透明感を醸し出す表面に、
霜が張るみたいに覆う片栗粉は宛ら誤って落とした時に付いた打撃痕の様でもある。
その白い斑模様を形成する表面には大量の豆が埋もれていたり隠れていたり飛び出ていたり、
あるいは水気を発して片栗粉や餅を融解し始めその表面に必死で密着している。
赤エンドウ豆にしては余りに黒々としたこの色合いは恐らく黒豆ではなかろうか、
黒さにもましてその丸さが表面に一種独特のフォルムを生み出す。

早速手に取ると途端に袋越しからもアリアリと感じ取れる餅の感触は、
餅に触れたあの慣れ親しんだ感触とは明らかに異なるハリを湛えている。
実際少々手荒に扱ってビニール袋から出す際にズイズイと無理矢理押し出しても、
ゴロリともんどりうって飛び出した「豆大福」を、
少々キツめに指摘まんで無造作にヒョイと持ち上げてみても、
その強いハリは揺るがず微塵も形を崩す事すら無く、
逆に指の腹を押し返してくる位に保たれている。
ほんの僅かに窪んだ餅の表面から伝わる感触は、
これまで巡り合った数多の「豆大福」とは明らかに異なる触感。
これぞまさに未知との遭遇である。
それと同時に疑念が湧く。
もしやこれはイワユル“経年劣化”ならぬ“経時劣化”で、
つまりは乾いちゃったのかな?という疑念が。

そんな混迷極める頭を抱えながら一口齧り付くと小臼歯辺りを強烈な弾力が顎を襲う。
何と云うハリ。
押し返された顎に勢いを与えつつ表面に思い切り前歯を立てて噛み付くと、
一転してこの硬い「豆大福」はいとも簡単にスクッと切り裂かれる。
その断片を大臼歯でチックチックと噛み締めながら急ぎ断面を見ると、
外見同様の蝋細工の様な透明度を持った餅が均等に水分を保ちヌラリと輝きを放つ。
全く乾いてはいない。
試しにクイッと引っ張ってみると途端にブチリと千切れ、
その切り口をまるで嘲笑うかの如くプルプルと振るわせるのみである。
そんな餅的可愛げの無い「豆大福」の表面を改めて注視すると、
表面に覆われた餅には今現在に至るまでハッキリと判る形成痕が残っている。
柔らかい餅なら徐々に消えて行くこのカリフラワーの様にこんもりとした包み後から察するに、
この硬さは「能登屋」の「豆大福」が持つ本来のモノであり、
それこそ“硬くなった”ではなく“硬く作った”という事の現れである。

そんな口内で何時までも弾み続ける餅の感触はもはや“皮”と呼べる段階に達していて、
百凡の餅達が有する“粘り”や“柔らかさ”といった、
文字通り“ヤワ”な特長は口にしたほんの僅かな間のみ持ち合わせるだけで、
後はひたすらに弾力を口内の奥深くでチックチックと発揮し続ける。
その硬派な餅の中から滑らかで優しい甘さを湛えた粒餡が、
ニュルリと出てきて餅の表面から隙間まで至る所へ纏わり付く。
舌の上にスーッと伸びる舌触りで一風変わった風味を持つ粒餡で、
サッパリとして口内に残る後味もクセが無く、
アズキの風味とコクとそれに何か加わった新鮮で複雑な味わいを湛えている。

そんな個性的な粒餡が優しく覆い包む甘い空間で、
例の「豆大福」の表面に取り付いていたハズの丸く黒々した豆が、
口内の其処彼処でゴリゴリガリガリと音を立て砕ける。
その風味からほんのりと黒豆的コクが漂うが豆自体は素朴な味付けで、
種皮の中からサラリとした舌触りの胚乳が現れて新たな食感を加える。

其処まで来ても餅はまだクニクニと何時までも自己主張を続け、
最終的には餡と豆に強制連行されて胃袋へと収まる。
まさにその食感は「豆大福」というモノの概念の遥か上空を行き、
既成概念を破壊するモノである事は確かである。
この餅が醸し出す雰囲気は既に“餅”の域を超え“皮”へと足を踏み入れ、
それはやがて“殻”へと進化するかもしれない。

ただそうなった場合は最早「豆大福」では無いのであるが。



能登
東京都江戸川区船堀2-12-18
8:00~20:00
火曜 定休
南口から船堀街道を葛西方面へ行き二つ目の信号を右折。十字路を二つ越えた先。